「言葉は本来賛成するも反対するも自由なものですから、賛成を強いるようであるならもはや言葉ではないのですから、言葉に関していえば、賛成するか反対するかはあまり大したことではないのです。
大切なことは聞きながさないこと、そしてその言葉を通して相手と対話を始めること。そういう意味では、神の言葉と信じるなら聖書も、全面的に認めねばならぬものではなく、疑ったり反発したりしながらも読み続ければ、それで良いのです。
そういう自由な対話の継続こそ、聖書が読むものに求めている神との対話でしょう」
(「福音は届いていますか」P.25 藤木正三)
今、教会学校では「創世記」。礼拝では「使徒言行録」を読み進めています。どちらも物語の形式で記されます。
「創世記」に記された天地創造の様子は観察記録ではありませんから、科学的事実として賛成を強いているのではなく、対話すべきものです。
また、初代教会の様子を記す「使徒言行録」を書いたルカも、教会の観察日記を書いたわけではなく、最初の教会が生まれて約50年後に、テオフィロや彼の教会に向けて、ルカの視点から物語った教会の物語です。
ですから、今日の礼拝で読まれる、持ち物をすべて分かち合った最初の教会の姿とか、また、アナニアとサッピラの夫婦が、ペトロの叱責で息が絶えてしまった物語など、疑問が残る箇所も、なにも賛成せよ、と強いられているわけではないのです。
疑ったり反発しつつも、しかし聞き流さず、対話しつづけていくこと。それが、神の言葉である聖書を読むわたしたちの、心構えなのです。